昨日の大阪国際女子マラソン。
私はニュースでみました。
福士は、4度転んで、ゴールに到着。
30キロ以降には目の前が真っ暗になったらしいけれど、
それでも42,195キロ目のゴールにたどり着いた。
「やればできる」
ってよく聞きます。
私も子どもの頃から、
「ラーヤちゃんはやればできる子だから」と
いわれ続けてきました。
でも、いつまでも「できる子」にはなりませんでした。
なぜか?
カンタンなこと。
「やらなかったから。」
私は、「やればできる子」であったかもしれない。
でも、「あなたはやればできる子なのよ。」
というその言葉は、
私の耳に入ったとたん、
「(あなたの中にはものすごく素晴らしい、
でもまだ目覚めていない高い能力があるのよ)」
という言葉に変わり、
さらにいつの間にか
「あなたには能力があるんだから、
(何も努力しなくても)チャンスがあれば
その瞬間に能力が開花するのよ。」
というとろけるような甘い言葉に変化していったわけです。
が、私は気づいた。
40歳にして、ようやく気づいた。
そんなわけない!
「やればできる」=「やらなければできないまま」
なのだ! ←遅い
それを実感させることは、気づけば
身の回りに散らばっている。
上記の、大阪国際マラソンの福士も然り。
近所にある、九州新幹線の線路も然り。
娘の冬休みの宿題然り。
こんなの絶対できない、ムリ、と思っていても、
やれば必ずできあがる。
あえて必ず、といいたい。
進んでるのは目にみえなくても、
「やれば」必ず答えはどこかに出てきてる。
☆「やればできる」=「やらなければできないまま」
という言葉の恐ろしいところは、
その言葉の抱える意味が、
「いつまでもできないから、これは私にはできない。」に
育ってしまうこと。
これはすっごく怖い。
できないから、能力がない。
できないから、向いていない。
できないから、どこかにできることがあるはずだ。
何もしないままただチャンスを待って、
環境を否定し、自分を否定し、
今まで蓄積してきた、そして
これから体験していくであろう智恵を否定し、
私を作り上げる事を忘れてしまう。
こわいね。
最終的に、
「やればできる」という言葉は、
ここまで恐ろしい感覚に成長してしまう
可能性を持っていると思うのです。
でも違う。
「やればできる」が
「やらなくてはできない」だと
はっきり自覚していたら、
どんなに苦しくても、進み方が小さくても、
「やらなくてはできない」と自覚していたら、
その言葉は必ず
「やればできる」に成長すると思う。
私が思うのは、
「やればできる」
「やらなければできない」
なのであれば、
「できる」と「できない」の違いは
ただ「やる」か「やらない」かの違いだけだということ。
そこには才能のあるなしよりも、
もっと重要で大切な、「できる」ための
入り口がある。
考えすぎかいなねー