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ストレスと愛

前回の話のある意味続き。

今現在、自分が持っているいろんな価値観や
経験や知識や存在自体やなんやかんや。

コレを2,3万で売るのは安すぎる
つー話を前回したわけですが。

その、いわゆる
「自分自身を構築する要素となる、
これまで生きてきた時間で得るたくさんのもの」
というのは、

たくさーん持っている人も、
私のは少ないなあ、と思う人もいて、

これは実際の量とは関係なく、

自分がどんだけ持っているか、という
意識の差だと思うのです。

まあその量の差による生き方の差には
今日は触れないけど、

その「たくさんのもの」を貯めるためには
ほかのものも色々と貯めなくちゃならない、

と私は思っています。

単純に言うと、

私はその「たくさんのもの」というのは
そのまま「愛」と言えるものなのではないかと考えていて、

それは「=ストレス」なんじゃないかと
考えるわけであります。

生まれてから
「たくさんのもの」を与えてもらう過程で、
人からのいろんな思いとか
行動の結果の影響を
受けるわけで、

そもそも自分に対する他人の行動が
ストレスじゃないわけないじゃんか。

だけど思う。

ストレスって今の日本の社会では
あまり良い言葉として使われることはないけど、
たっぷり関わられたり、
たっぷり気にされたり、
たっぷり影響を受けさせられたり、
ものすごく誰かにストレスを受けさせられるということは、

すなわちものすごく誰かに愛されているということではないのか?

ストレスがたまる=愛の貯金がたまっていく

ではないのか?

そりゃまあ愛の形が間違っている場合もあろう。

でもさ、

あなたにたまっていく、
あなたを構築する要素の一つである愛は、
必ずストレスをためる原因になるものなんじゃないんだろうか。

私は、その愛を貯めてくれる相手は
結構どこにでもいると思う。

そしてそれは、

一緒にいるとストレスがたまる、
ウザイと思っちゃう相手なんじゃなかろうか。

ウザくない相手は、
愛も貯めてくれない。

はい結論。

ひとを構築する、さまざまな時間や経験や
知識や愛情や価値観や
その他もろもろの大切なものは

ウザくない相手からはもらえません。

ストレスがたまる相手は、
自分に何かを与えてくれる相手。

愛情だけもらうことはできません。

それを考えると、
ストレスがたまらない方向へと行き過ぎているとも見えるこの社会は、あんたちょっとそれは違うんじゃないのか?とすごく危険な気がするのでありました。

といいきっちゃうよ、アタイは。